

シリーズ:アーティストの対話 第1回
コンテンポラリーダンスの行方 (前半)
編集・テキスト:竹田真理(ダンス批評)
テープ起こし:関珠希
2020年1月11日
時間:15:00-17:00
会場:京都 徳正寺
参加費:無料
出演:ディーン・モス / 山下残
企画・通訳:余越保子 通訳:浜辺ふう
企画・進行:水野立子 Dance Camp Project
全国各地のコンテンポラリーダンス・プラットフォームを活用した振付家育成事業2019「ダンスでいこう!!」の<城崎プラットフォーム:Dance Campクリエイション&ダイアローグ・ワークショップ by ディーン・モス&余越保子 (会場:城崎国際アートセンター)>の関連事業として、2020年新春、京都のお寺・徳正寺で行われたトークイベント「アーティストの対話」の編集記録を掲載します。
登壇したのは、Dance Campのファシリテーターを務めたニューヨーク拠点のアーティスト:ディ-ン・モスと、京都在住の振付家・ダンサー:山下残の二人。同じくDance Campのファシリテーターで、振付家の余越保子(現在は京都拠点)が、ディーンの通訳と米国のダンスの歴史や状況の解説役として加わりました。
新春初トークの場として相応しい会場、京都のメイン通り四条富野小路を下がったところに在る徳正寺。このお寺は1602年安土・桃山時代に東山区から移動、四条通の京都信用金庫の裏に面し建物が喧騒を遮断するせいか、寺内は時間が止まったような静寂に包まれている。お庭に入ると縄文建築家の異名で著名な建築家・藤森照信氏が設計したツリーハウスのようにみえる独創的な茶室「矩庵」が目に飛び込み、古寺の庭が現代アートの空間に様変わりする。住職さんに詳細に茶室とお庭の説明をしていただき、にじり口ならぬにじり梯子で、下から上に狭い階段をにじりあがっていく。徳正寺の興味深い由来などの説明はこちらを参照ください。
「京都には古きよきものを受け継ぐだけではなく、現代の先駆的なものを受け入れる懐の深さが在る」と実感できる空間だった。京都に長く居住した哲学者・故・鶴見俊介氏は、この徳正寺を書斎のように使い、文化人との対談などにも使われていたようだ。
コンテンポラリーダンスの未来を語るにはこれ以上、相応しい場所はなかったのではないか。
徳正寺さんありがとうございました。
ニューヨークと京都、二つの都市におけるダンスの歩みと未来について、各々の経験を交えてたっぷりと語られます。前半と後半に分けてお届けします。



水野立子(司会、以下水野):2005年ごろをピークに国内のコンテンポラリーダンスは勢いを失っています。今後どうすれば影響力のある作品が生まれ、アーティストが育っていくのでしょうか。今日は新年でもありますし、ダンスの未来に光が射すようなお話をディーンと残さんのダイアローグから、そして皆さんと語りあう機会にできればと思いこのような機会を作りました。
山下残さんはご存じのように90年代から京都を拠点に、カンパニーを作らずインディペンデントなアーティストとして、国際的にも幅広く活動を継続してこられました。京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)や京都芸術センターなどの育成プログラムを通して、若い世代のアーティストを見てきています。
ディーン・モスさんは、N.Y.を拠点に常に先駆的なアイデアを作品に持ち込むアーティストとして活躍し、キッチンThe Kitchen (https://thekitchen.org/)のキュレーターとして若手の育成に長く携わってこられています。日本では、東京芸大の教鞭をとられたこともあり、この度のDance Campではファシリテーターを務めていただきました。トリシャ・ブラウン(Trisha Brown)、ウースター・グループ(The Wooster Group)が頭角を現し始めた70年代の刺激的なアートシーンの全盛期にあったニューヨークの同時代を経験し、80年代に作品を作り始め、「振付家」とは名乗らず、インターディシプリナリー・コレオグラファー(Interdisciplinary Choreographer)と称していらっしゃいます。
N.Y.と京都、2つの拠点で、ご自身の活動と次世代の育成に関わってこられたこのお二人のアーティストのダイアローグに耳を傾けることで、これからのダンスの未来を考える時間にしたいと思います。
ではまず山下残さんからお話いただきます。私が1年滞在したN.Y.から帰国した後、残さんの公演を東福寺のスペースイサンで拝見しました。舞台にレコード盤を置いた舞台美術と、客席を含めた空間全体の演出、いわゆるダンスらしいダンスはないけれど、ダンスそのものが立ち上がる身体の圧倒的な存在を印象づける作品、不条理な世界感が今でも鮮明に蘇ります。その時から、20年日本のダンスシーンを見てこられて、過去と未来を残さんはどのようにご覧になっていますか?

山下残(以下、残):最近YouTubeを生業とする若者と出会ってですね、動画をアップして再生回数を稼ぐ、日本語でいう「バズる」ためにどういう仕掛けが必要か、例えば海外から輸入したマイナーなゲームを実況中継するといったことで何十万回という再生回数を稼ぐ人がいるんですよ。それでもしダンサーとして、何か動画をアップロードして、成功する可能性はあるのかと相談をしたんです。すると彼の見解が面白くて、「もし手っ取り早く再生回数を稼ごうと思うなら、今話題のニュースのWikipediaの文章をそのまま画像に貼り付けてアップロードしたらいいと。ただ、そこに人の身体が介入した途端にダメになる。」と言うんですよ。僕はそれが面白いなと思って。世の中の注目を浴びようとする時に身体というものが、もしかしたら邪魔をしてるのかな、という印象を、その若者の話から感じましたね。
そういう意味では、例えば「バズる」ってことを言いましたけれども、常にいろんな言葉がインターネットを通してどんどん更新されていく。バズる、っていう言葉も数年後には広辞苑に載るかも分からないですし、間違った日本語とかインターネットで発明された言葉がそのまま流通していって、遂には本当に百科事典に載ってしまうような現状。そういう意味で言葉は更新されてるんですよね。コンテンポラリーのピーク、2000年かその前後あたりで思い出せるのは、身体が更新されていたなっていうことなんです。こんな人が、こんな身体が踊るんだと。こういう組み合わせでダンス作品が作れるんだっていう。毎年ダンス作品を見ながら、身体の更新がなされていた気がします。
そういう意味では、今そういった驚きというものはあまりないですね。身体が大きい人、太った人、如何にもダンスしないような人、どんな人が出ていても驚かないような状況になっている。人々が注目をするには何かしら更新がされてないと厳しいんだろうなという気がします。
でもそれは仕方がないのかなって、人間の体がいきなり、10年20年で変化する訳ではないですし、AI、ロボットを使うような作品というのは、いろいろ試されていますけど、世の中の人もロボットが踊るみたいなものにあまり興味は示してないような気がします。いきなりロボットに行くのはちょっと飛躍が大きいんじゃないか、もうちょっと生活に密着して、AI、ロボットと身体の融合が普遍的になると、そこから面白いものが見つかるかも分からないですけど。

京都の90年代
残:過去の話をしますと、90年代前半頃からいろんな作品を見て、作りはじめて、準備をしていました。京都にTHEATRE E9っていう劇場がありますが、その前にアトリエ劇研って劇場があり、その前身のアートスペース無門館って劇場がありまして、そこに有名なプロデューサーの遠藤寿美子さんという方がいまして。ちょっと話がズレますけども、2001年に京都芸術センターで、日本とどこかの国のダンサーと振付家がコラボレーションしてショーイングするっていうのを見たんですよ。カナダだったかな。確かJCDNが企画していたと思うんですが、
水野:JCDNは準備室のころで京都公演の受け元として制作でかかわっていましたね。カナダ・日本のCJ8ですね。
残:京都芸術センターの講堂がびっしり満杯になってる状況を見て、僕の隣に座っておられた遠藤寿美子さんが、90年代前半にコンテンポラリーダンスの企画をすると客を50人集めるのも大変だったと。実際に遠藤さんは黒沢美香さんとか山崎広太さんをまだ無名の時に企画して京都のアートスペース無門館に招聘していた人なんです。その遠藤さんが、90年代前半から10年ほどで、自分が苦労していたコンテンポラリーダンスの企画がこんなに盛り上がっているのかって驚いていたのをすごく覚えてます。
水野:遠藤さんは、残さんがおっしゃったアトリエ劇研の前身の無門館というスペースを運営していてダムタイプが無名のころからサポートされていましたね。
余越保子(以下、余越):その遠藤さんが、今こんなにダンスが盛んだってことで驚いたと。90年代前半には彼女は苦労をされていたと。
水野:私は白虎社という舞踏のグループで1980年から1994年まで活動していましが、90年代には、お客さんは1公演1000人単位でしたね。今のロームシアターの前身の京都会館や、「北座」という西陣のスペースでも、だいたいそれくらいは入ってましたね。コンテンポラリーダンスという言い方は、当時はまだ無いですが、100人200人は少ないという認識の時代でしたよ。

白虎社 ビデオビエンナーレ受賞作品 ムービー「光の王国」より
オーストラリア メルボルン撮影
残:白虎社はやっぱり特別だったと思います。ダムタイプは今でこそ伝説ですけども、僕が見た『pH』とかあの辺の作品を狭いキャパの無門館でやってた時は当日券でも入れるくらい余裕はありましたからね。
水野:その『pH』がヨーロッパに行って帰って来た凱旋公演はもう満席だったんですね。山崎広太さんのカンパニーrosy,coも、1997年に制作しましたけど、ALTI(京都府民ホール アルティ)で立ち見が出るほど盛況でしたね。
残:そうですね。僕が話しているのはもう少し前の頃の話です。それであと95年頃、2000年代にヨーロッパを席巻するジェローム・ベル(Jérôme Bel)が京都に滞在してるんですね。それも殆ど情報は回らずに噂だけ、なんかずっとダンサーがTシャツ脱いでるだけの作品があるみたいな、そういう情報だけは入って来ました。つまり、実は90年代京都っていうのは、目立たないところでいろんなことが起こっていた。だからまあ、今ダンスが盛り下がってると言われますけれども、今日ここでこのように少ない人数で膝を突き合わせて話をするっていう状況は、その90年代後半からガーッと盛り上がってくる少し前ぐらいの状況に近い印象がある。流行りとかそういうものは波がありますから、あまり悲観はしていないんです。
盛り上がる話で言うと、例えば、2000年代、関東のコンテンポラリーダンスの発信地は明らかに横浜のSTスポットだったと思います。STスポットでラボ20というアーティストや振付家がキュレーションをする企画があったんです。僕はまだ東京や横浜で無名でしたが、STスポットで自主公演をするのに心配してくれて、ラボ20のキュレーターとして仕事を依頼してくれたんです。そこになんと、もう、50名を超える振付家の応募者がいましたね。その中にその後活躍するほんとにギラギラした若手の振付家達がたくさん応募してくれていて、全部のショーイングを3日間ぐらいかけて見るんです。次から次へといろんなダンスがあって、その中からキュレーターの自由な採択でプログラミングする振付家を選ばせてもらって、何か月後かのSTスポットでの公演に向けて一緒に新作を作るんです。そういう盛り上がりが、あれは確か2003年ぐらいだったと思います。そのころは関西でワークショップをしても人の集まりがすごく良かったですし、アイホールや京都芸術センターで公演する時にはすごくお客さんは集まっていましたね。その後、僕は2000年代後半あたりから海外の活動が増えて来て、あまり関西で公演する機会が無かったんです。それで2010年代中頃になって、地元に帰ってきたら人がいなくなってると。で、いなくなってるのはなぜかということは、今すぐ答えは出せなくて、まぁそういうことを皆さんと一緒に考え行けたらいいなと思っています。
水野:ありがとうございます。では、日本とは全く異なる米国で80年代から今までサバイバルして来られて、若い人のことも数多く見てこられているディーンさんから、今、米国のパフォーミングアーツはどうなっているかをお聞きしたいです。それから、もし日本についてアドバイスなどがあればお願いします。

ニューヨークの80年代――方向性が分かれていく過渡期
ディーン・モス(以下、ディーン):私のニューヨークの活動の経験からいきますと、ダウンタウンのダンスというのは1983年頃から始まりました。コンテンポラリーダンスのことを考えた時に80年代前半はとても面白い時代で、ダンスというものの芸術価値が、技術ということからちょっと離れたところに移行している時代でした。
余越:振付家が振付をする時に、80年代やそれ以前は、ダンスのボキャブラリーをまず作ってから作品を作るっていう時代だったんです。
ディーン:動きのボキャブラリーを自分で作ってから作品を作る作家、マース・カニングハムMerce Cunninghamと後期のトリシャ・ブラウン(Trisha Brown)がそうですが、その最後の時代が80年代だったと思います。
また、身体により深くコミットする作家が出てきたのが80年代。テクニックではなくて、ボディーそのものの在り方ですね、「身体とはなんぞや」という、アンナ・ハルプリン(Anna Halpri)に由来するアプローチを「ソマティック(somatic)」と言うんですが、シモーヌ・フォルティ(Simone Forti)というジャドソン時代に活躍した作家がいまして、そういった人達の身体の知覚や即興を重視した思想がより深まったのも80年代。方向性が分かれていく過渡期だったんです。ソマティックの方へ、という行き方があり、同じくジャドソン・ダンス・シアター(Jadson Dance Theater)の作家でよりコンセプチュアルな方向へ向かったイヴォンヌ・レイナー(Yvonne Rainer)が、テクニックやドラマ性をラディカルに否定した身体表現のマニュフェストを出していた時代でもありました。
ジャドソン・ダンス・シアターのメンバーで、テキストを使用した「トーキングダンス」の第一人者であったデイヴィッド・ゴードン(Davod Gordon)という作家と、私は深い関わりを持って作品を作っていました。
ディーン:80年代のダンスは身体から離れていって、コンセプトの方をどう広げていくかに集中していき、また80年代から90年代にかけては美術館で多く作られるようになっていきます。ポストモダニストってわかりますか?イヴォンヌ・レイナーなど、モダンダンスの後に現れたポストモダンダンスを担った人達が、80年代にはまた次の時代に足を踏み入れていたんですね。イヴォンヌ・レイナーはダンスに革命を起こした人ですが、その時にはもう映画を作るほうに移行しているんです。
私が一緒に働いていたデイヴィッド・ゴードンは小さな劇場から初めたんですが、BAM、ブルックリン・アカデミー・ミュージックという大きなオペラハウスで作品を見せるような、そういう時代が来ていたんですよ。それまでは小さな劇場でやるのが主流だったんですけれど。オペラハウスにコンテンポラリーダンス、ポストモダンダンスの人達が進出していった時代です。ポストモダンのダンスは確固たる地位をどんどん築くようになっていって、ダンスの中のメインストリームの一員となっていきました。私のニューヨークでの経験と、キッチン(The Kitchen)という劇場での10年間のキュレーターとしての経験を通して見ると、実験的な作品は90年代前半の表現といえます。
余越:その当時「アイデンティティーワーク」というものが出てきたんですけども、アイデンティティーワークというのは、多民族が一緒に住むニューヨークで、自分のルーツは何なのだという、自身のアイデンティティーを作品化する、そういう時代が始まったんです。その当時に彼(ディーン)はキッチンでキュレーターをしていました。
ディーン:そういう作品を通して、身体から離れたところ、思想とかコンセプトが、より重要視されるようになってきました。

コンセプトの重視とアイデンティティーワーク
余越:「ボディー」の語の使い方ですけれど、日本語の身体と西洋圏の身体の違いが難しいんですが、彼(ディーン)が今言ったのは、Body はあるんだけど、存在、人が存在すること、その人のプレゼンスpresenceそのものであって、動いているとか上手く踊れるということよりも存在する身体、或いはコンセプト、アイデアを重視する作品が前のめりに進んで行った時代ということです。
ディーン:それは社会の中の動きというものと、とても密な関係を持っていると思います。その社会が、作家がどういう人なのか、どこから来ているのか、誰が喋っているのかといったことに対してとてもセンシティブになっていた状況でした。そして作品自体が複雑性を増していきました。
作品を作るというけれど、私がアメリカで黒人として作品を作る時に、お客さんに対して作っている自分が誰なのか、作品の中で私はどういうものを代表しているのか、どういう環境で誰が作っているのか、ということがとても重要になってきました。
余越:補足しますと、作家が作品を作る時、それまでは、時空を流れる動きの表現としてダンスの振付があったのですが、その時代から作家が誰か、白人なのか黒人なのかアジア人なのか日本人なのか中国人なのか、そういう特殊なバックグラウンドと、その作家が経て来た歴史、社会性、政治的な背景を携えて作品を作り、見る人もそこを見るという時代になったので、そのディーン・モスという黒人の作家が作った作品と、残さんのようにアジア人であり日本人である作家が作ってるという状況自体が、もうそれだけですでに一つの作品として見られるようになっていった訳です。
ディーン:変化が一方へと進んで行ったということですね。より複雑にアイデンティティーに特化するようになり、コンセプト重視になり、というようにニューヨークのコンテンポラリーダンスの歴史が一つの方向に強く進んで行ったのを私は今まで見てきたんです。

ディーン:残さんがYouTubeのお話をされましたが、メディアの中でどう存在するかという問題は継続して考えられて来ていると思います。人間の身体が介入することでアクセスが少なくなることに関しては、私はそれには同意しないんです。テクノロジーの進展によって人間のリアルな存在の重要さが失われるという言説が繰り返されても、そのたびに覆されています。歴史はそれを証明していると思います。
メディアを使う時、私たちはスクリーンを通して人の存在が拡張しているのを見ていると思うんですね。存在が拡張し、他の人と繋がって共生していくことを私たちはいつも求めている。そういうコレクティブな意識を拡張していくというのが、メディアがスクリーンで作品を作ることによって進んでいる部分じゃないかと。それは必ずしも今日のこの場のような共同体の集まりを消し去ることではなく、その方法が追加されたと考えられる。世界のどこでも作れるんだという意識を持った共同体の作り方をする世代が出てきたということだと思います。
iPhoneを通してでも、スクリーンを通してでも誰かと繋がろうとする人間の本質的な願望は、なぜパフォーマンスというものが我々の生活に重要なのかということの証明にもなっていると思います。
水野:ディーンさん、ありがとうございました。ご紹介遅れましたが、まず、通訳の浜辺ふうさんです。ご自身も演劇を作っている作家の方です。
浜辺:はい。最近出来たTHEATRE E9で去年の9月に公演をしまして、私自身もその劇場の近くに住んでいます。
水野:そして余越保子さんです。ディーンの通訳をするのに、ダンスの歴史などのバックグラウンドや基本的な知識を補充しながらでないと、ディーンの話が伝わらないので、そこをフォローしてもらいます。
余越:大学の講義のようですごく難しいです。私もそこまで専門的な内容を英語から日本語に訳したことがないものですから。
左:余越保子さん
右:浜辺ふうさん

水野:それから、余越さんはディーンと同じように2014年まで30年間ニューヨークを拠点に作品を作ってきたアーティスト、振付家でダンサーです。昨秋に、『shuffleyamamba』という新作の初演を終えたばかりです。アメリカ人実験音楽家のゲルシー・ベルとの共同企画で、お能の演目『山姥』から着想し、女性芸能者の目線から芸の継承について考証を行い、ジェンダーも扱う盛り沢山な作品です。ニューヨークで90年代に余越さんが初演した『SHUFFLE』と『山姥』を合体した作品『shufflleyamamba』となっています。
余越さんのアーティストの特徴としては、西洋のコンポジションを学んだ後、日本に一時的に帰国した際に日本の古典舞踊と出会い、古典としてではなく最先端のコンテンポラリーダンスとして、能や日本舞踊に興味を持ち、コンテンポラリーアーティストの目線で追求していること、同時にそれを題材にコンテンポラリーの作品を作っている。もしかしたら、日本のこれからの流行りになるのかなと。『shufflleyamamba』は、毎年違うバージョンを新作のように新たなテーマで更新していっている作品です。
ディーンはもちろん欧米ですけど、残さんのコンテンポラリーダンスも同様に、欧米を向いて始まったけれども、最近は若いダンサーたちがアジア、それから日本の伝統芸能にも目を向けていますよね。それはもはや倣え右で西洋だけ見ていても、先が開けないと分かってきたのかもしれません。そういう意味で余越さんは先駆けになるのかな。
ということで前半終わりましたが、みなさん、どうですか?ディーンの話、ついて来られてますか?

余越:私も同じ時代にニューヨークに居たので補足しますと、アイデンティティーワークというのは皆さんには、「ん?」と思われるかも知れないですが、私がマサチューセッツの大学でダンスの勉強をした後、ニューヨークに渡って作品を作って踊り始めたのが1987年。アイデンティティーワークというのが出てきたのは私がダンサーとして初めて踊り始めた時代だったんです。その当時は、まず日本人のダンサーがいなかった。黒人のダンサーも白人と一緒に舞台に上がることなんてない時代です。当時、ニューヨークのダウンタウンのダンス界隈には、私が知る限りでは、4人ぐらいしか日本人がいませんでした。それで、私に仕事が回ってくるんです、日本人っていうだけで。そういう時代だった。
作品を作り始めたころ、自分のアジア人としての、或いはアジア人女性としてのアイデンティティーを、(作品として)別個に殊更に作ろうとするのでなく、自分がそうであるので、そうとしか生きれないし、そのため作品も自然そうなってしまう。たまたま、私の作品群が時代の流れと共にしたわけです。そして、ディ-ンも黒人であるということ、黒人としてのアイデンティティーを扱った作品を作ることで時代の流れと合ったということもあり、私達はその時代にたくさんの作品を発表しました。
この、アイデンティティーワークというものを日本ではなかなか理解しにくいと思うんですが、皆さんがもし海外に行かれて日本人だと言った時に、海外の人に日本について聞かれると思うんですよね。そこで初めて「え、日本人って何なんだろう?」って改めて思われると思うんですが、私は長年海外に住んでいるので、そこはずっと意識して暮らしてかないといけない。或いは黒人だったら、「黒人っていうのは何なんだろう?先祖が奴隷って何だろう?」ということは、白人社会の中では、ずっと考えて生きないといけないし、自然と作品もその視点から作り続けていくことになる。そんな時代に私達はニューヨークで作品を創って来たということを、ディーンが彼の言葉で、今説明したわけです。

複雑化する「私とは誰か」
ディーン:アメリカには多様な人々が住んでいます。そのアメリカでアイデンティティーということを考えた時、アメリカ社会が白人男性を中心とした思想のもとに成り立っているというところも重要なポイントだと思います。アーティストはさまざまな背景を持っていて、白人男性が作ってきた社会構造に反発して作品を作り始めます。ポストモダンワークのほとんどがそういうものでした。
アイデンティティーワークの時代の前半、最初の頃は、「ハーイ!私ここにいるよー!」みたいな感じでした。「私は黒人だけど、私は自分を誇りに思っている」というような。「私は太っているけど、でも踊れるんだよ」とか、「僕はエイズで、僕の人生はある一つの方向へ進んで行こうとしているけど、僕もそれを知りたい」。
たくさんのアーティストがそのような自己肯定的で短絡的なアイデンティティーへのアプローチに異を唱えていったんですね。で、デイヴィッド・ゴードンもそのような異を唱えた作家の1人なんです。彼の作品はアイデンティティーワークとまではカテゴライズされないけども、自分のユダヤ人としてのアイデンティーをとても洗練された形で作品に組み込み昇華していました。ただし世間に流布している表層的なアイデンティティーワークを避けていた。私は彼とのカンパニーを10年やってその影響を受けています。
それでもやはり私の作品というものは、いつも自分のアイデンティティーと密接な関係を持つようになっている。私はここにいるよっていうよりも、「いや、私はあなたです」というアプローチで作っているんです。そして、「あなたは私である」というふうにも。つまり私は作品を作る時に、“何かになる”ということの過程を表現していたんですね。
アイデンティティーワークを作る人達は、1つの「コレです」という見方ではなくて、マルチな視線から見たこの黒人、或いはそのジェンダーに属する人が、どんな高さの目線からどういうふうに見えるかということ、すべて取り入れた複雑な構造をもった作品を作ることが多いです。そういう意味のアイデンティティーです。
だから、一言でいえる「日本人!」みたいなことではなくて、日本人として、女性として生きるってどういうことなんだということ、かなりいろんな多重構造、物凄いレイヤーを、社会的、歴史的に、白人の目線から見るのか、アジア人の目線から見るのか、或いは日本人の目線から見るのか、女性の目線から見るのか、男性の目線から見るのかといった、すべて考慮に入れたマルチなタスクから多重的に構築していくというアイデンティティーワークを作るのが主流ですね。
水野:それは今でも続いているのですか?
ディーン:今はもっと洗練されていますね。より多角的な視点を持った作家でなければ成功しません。
水野:残さんは日本のコンテンポラリーダンスの始まりから今までの中で、このような作品、或いはこのような作り方をする作家がいるのか、観客もそういうことに興味を持っているのか、その辺のことをどう考えていますか?
残:日本で、日本人がアイデンティティーワークをやるということが上手くいかなかったんでしょうね。ちょうど水野さんがおっしゃったように、そういうことをやるとブログ的なダンスになってしまう。ニューヨークでそれをやる、生きるか死ぬかの状況で自分のアイデンティティーを表現するっていうこととは明らかに違う訳だから、そこが上手くいかなかった。
だから僕は、もしディーンさんが日本のことをよくご存知でしたら、日本人のダンサーが、日本でアイデンティティーワークを作るのであれば、どういったところにポイントを置くと良いか、アドバイスが欲しいです。

ディーン:今、日本に暮らす人々の中に多様な人々がいることに日本が気付いていくことを僕はとても期待していて、それがすごく楽しみです。日本の作家にとってアイデンティティーを見出すきっかけが、より細かく緻密な関係性や人々の傷つきやすさにあるとして、それを濃やかにリサーチし、突き詰めていくことに関しては、日本の作家は良い時代にいるんじゃないかと思います。
日本社会が安心安全ということがありますよね。確実に中庸を好み、変わらないことを好むという。その変わらなさに対して今疑問が出ている時代だと思うんですけど、それに対する視点を日本人として描くというのはすごく面白いと思う。差別されている人々、見えないことにされている人々が必ず存在する。また、移民の人とか肌の色が違う人が日本にたくさん住んでいて、そういった社会から避け者にされている人達の目線と、この日本の一見盤石な社会の目線とで、どういうふうに見えるかという作品が今後は出てくると思います。主婦の持つアイデンティティーというのもありますが、そのアイデンティティーも変容していますよね。そのこと自体を語ろうとする作家や作品があっても面白いと思うんです。
僕が知っている限り、このようなダンス作品はあまり日本では見たことがないですね。日本ではこうした作品にすごく可能性があるように思えますけれど。作家である皆さんにとっては非常に興味深いタイミングだと思いますね。
(後半に続く)


ディーン・モス Dean Moss
インターディシプリナリィ振付家、メディア作家。ニューヨーク在住。 ニューヨーク現代美術館、マサチューセッツ現代美術館、ウオーカー・アートセンターの他、最近では、パーフォーマンス・スペース・ニューヨークでマルティメディアのパフォーマンス作品を上演。レイラ・アリ(現代美術)Young Jean Lee(演出家)、サミタ・シンハ(実験音楽)と共にフィールドを横断した共同制作を行い、ジョンサイモングッゲンハイム財団、ファンディションコンテンポラリーアート財団のフェローシップやドリス・デューク・インパクトアワード(演劇部門)、ベッシー賞最優秀作品賞他を受賞。1999年より2004年までNY市の先端アートセンターにてダンス&パフォーマンスのプログラム・キュレイターを務めた後、2009年までアドバイザーとして育成プログラムDance & Processを担当。東京芸術大学にて客員教授として1年間招かれ、韓国の国民大学校や、ハーバード大学の美術環境学部にて3年間教鞭をとる。今年9月からはプリンストン大学に専任講師として招かれている。

山下 残
振付家、ダンサー。京都市在住。90年代中頃からプロジェクトごとにコンセプトを立ち上げメンバーを集い活動を続ける。2000年以降、伊丹アイホールや京都芸術センターにて複数年をかけた創作の機会を経て、その後、TPAM(横浜)、クンステン・フェスティバル・デザール(ベルギー)、エスプラネード(シンガポール)、ホームワークス(レバノン)、アゴラ・ド・ラ・ダンス(カナダ)等国内外の劇場やフェスティバルでの発表を行う。2015年には韓国・光州アジア芸術劇場から新作の委嘱受け、インドネシア・バリ島にて滞在制作。非常勤講師として2013年から2019年まで京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)、2016年から2019年まで京都精華大学。2011年から2013年までセゾン文化財団シニアフェロー。2017年から2019年にかけて友人であるマレーシアの政治家の立候補から当選までの国政選挙運動に密着取材したパフォーマンスを制作。最新作はアッセンブリッジ・ナゴヤ2019にてビルの屋上に野外舞台を設置したソロダンス。

余越 保子
振付家、演出家、映像作家。広島県出身。2014年までニューヨークを拠点に活動、現在京都在住。日本とアメリカの文学、歴史、ポップカルチャーを題材にしたダンス作品の他、2010年に撮影された映画『Hangman Takuzo」の監督、1990年森鴎外記念自分史文学賞受賞など、創作活動は多岐にわたる。グッゲンハイム美術館、ホイットニ-美術、マサチューセッツ近代美術館、New York Live Arts, The Kitchen、Japan Society、P.S.122 などアメリカ国内での公演の他、Dublin Dance Festival (アイルランド) 、Theatre de la Ville (フランス)などアメリカ国外か らも招聘多数。ジョンサイモングッゲンハイム財団、ファンディションコンテンポラリーアート財団のフェローシップの他、ベッシー賞最優秀作品賞を2度受賞。ダンスボックス主催国内ダンス留学のメンターを務めるなど、定期的に若手振付家のためのクリエーションワークショップ「ダンス&プロセス」を開催している。